牧師メッセージ

1月10日(日)降誕節第3主日 青年礼拝 説教「バプテスマ」

更新日: 2021.01.16

降誕節第3主日(2021.1.10)青年礼拝説教     牧師 野田和人

マタイによる福音書3章13~17節、ローマの信徒への手紙6章4~14節

牧会祈祷
 慈しみに富み給う、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年、降誕節第3の主日にあって、今日の礼拝を青年礼拝としてささげることのできる恵みに心より感謝いたします。
 神さま、あなたは私たちがあなたにおいて一つとなることを望んでおられます。私たちはあなたの民の一致を願っています。けれども、私たちの高ぶり、私たちの不信仰、私たちの無理解、私たちの無関心が私たちの間に分裂を引き起こします。どうか、私たちがこの分裂に慣れ親しんでしまうことのないよう、私たちを分裂の闇から掬い上げ、私たちを助けてください。
 この世界を害し、あなたに背くことが当然であると考える力から私たちを遠ざけ、お守りください。あなたが一つにされたものを分かれさせることが罪であることを、私たちに覚えさせてください。私たちの心の狭さ、あらゆる偏見から私たちを救ってください。
 こうした現実の中で、私たち、この愛する神戸栄光教会に連なる者たちが、幼子から青年、壮年、ご高齢の方々まで、主にあってお互いを知るためにまず出かけて行く場が身近にこうして与えられていますことを、リモートを通してもそのような場が与えられていますことを、心から感謝します。
 この交わりを通して、私たちの、あなたと共にあるという感覚を生き生きとさせ、あなたと、私たちの隣人に心から仕えていくことが出来ますよう、私たちの間にある、教会学校をはじめとする様々な交わりをお導きください。
 その場に出かけることの困難な方々を覚えます。召された方々とそのご家族を覚えます。あなたがお一人おひとりと共にいてくださり、私たちの祈りと志とを合わせ、必要な助けと慰め、平安と祝福をお与えください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

説  教            「バプテスマ」
 今日最初にお読みした、イエスさまがバプテスマ-洗礼を受けられるお話は、新約聖書の四つの福音書すべてにあります。それぞれの福音書で描き方は少しずつ異なって記されていますが、マタイによる福音書の大きな特徴は、ここで、15節ですが、イエスさまご自身が初めて、ご自分の言葉で語っておられるところです。
 この福音書の聞き手、また語り手は、イエスさまの洗礼物語を、このイエスさまの言葉無しですでに知っていました。ですから、福音書記者マタイがここに置いたイエスさまご自身の言葉には、特別に注目させられたに違いないでしょう。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。この言葉が何を私たちに伝えようとしているのか、あとでご一緒に見ていきましょう。
 
 イエスさまはガリラヤのナザレからヨルダン川にやって来ます。福音書記者マタイは、イエスさまがそこにやって来られたのは、洗礼者ヨハネからバプテスマをうけるためであると、ヨハネからバプテスマを受けようとするイエスさまの思い、意図を際立たせておいて、それに続く会話を準備します。
 「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。ヨハネはここでイエスさまの受洗を思いとどまらせようと試みています。一つ前の段落を見てみますと、自分よりも優れておられる方、霊を帯びておられる方、そして、将来、その聖霊と火でもってバプテスマを授けられる方に、この自分がバプテスマを授けるわけにはいかない、そんなことはとてもできないというわけです。

 当時、異邦人-ユダヤ人から見て外国人-がユダヤ教に改宗する際には、水の中で自分の体を清める必要がありました。しかし、ヨハネの授けていたバプテスマは、すべてのユダヤ人に対して、彼らが自分たちの罪を告白し、そこから彼らを悔い改めへと導いていくバプテスマでした。ですから、神さまに選ばれた民-神の民であるという、選民としての自覚を持っていたユダヤ人にとっては、このヨハネのバプテスマはたいへんショッキングな出来事だったのではないかと思います。
 けれども、それにもまして驚くべきことは、なぜイエスさまがということです。なぜ、洗礼者ヨハネ自身が自分よりも優れていると語っているイエスさまが、そしてここには表されていませんが、原始教団以来、初めの教会-初代教会がそうであると理解してきた罪のないイエスさまが、なぜこのヨハネの、人々を悔い改めへと導くバプテスマを受けなければならないのかということです。

 福音書記者マタイはこの問いに真摯に答えようとして、ヨハネからバプテスマを受けようとするイエスさまの考えを、意図を、具体的にイエスさまご自身の言葉で表したのでした。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と。
 この言葉は、「今は私があなたからバプテスマを受けるのを許してほしい。父なる神の意思、思い、ご計画のすべてを行うことが、今の私たちに必要なことなのだ」ということです。「正しいこと、すなわち父なる神さまの意思、お考えのすべてを行うこと、それが今私たちに必要なことなのだ。だから今はあなたからバプテスマを受けさせてほしい」。イエスさまはこう語っておられます。

 ここで語られている事柄を一言で表現すれば、例えば「従順」という言葉が相応しいのではないでしょうか。イエスさまは洗礼者ヨハネに、彼がご自分にバプテスマを授けることを促されました。なぜならそこに父なる神さまの意思があることを悟られたからです。「そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにし」(15節b)ました。
 イエスさまは、「わたしは柔和で謙遜な者だから」(マタイ11:29)と言われましたが、私たちの信仰の先達はこの箇所ついて次のように語っています。「イエスは私たちにへりくだりを教えるためにヨハネの下に来たのだ」と。
 そして結果として、イエスさまは私たちと同じ低さ、罪を告白し、悔い改めへと導かれる私たちと同じ低さに立たれたのでした。

 マタイがここで意識して示した、従順な者、へりくだった者としてのイエス。このイエスさまの従順に神さまは応えられました。まず、聖霊という神の力の授与を通して。そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」であるとの言葉を通して。
 マタイはここで、イエスさまの誕生時に示された「神は我々と共におられる」(1:24)-「神、我らと共にあり」とのインマヌエルの約束に続いて、この従順に対して与えられる神さまからの約束を通して、イエスさまのみならず弟子たちも、そして私たちも神さまの愛する子となることができることを私たちに伝えています。

 ここで私たちの関心は、天から聞こえてきた神さまの約束の言葉へと向かっていきます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」-この「わたしの心に適う者」は、直訳をすると「これを喜ぶ」となります。
 従って、ここにはやはり旧約聖書のイザヤ書42章1節の預言の言葉-「主の僕」の箇所-が明らかに響いていると見ることが出来ます。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」。この「わたしが喜び迎える者を」の所です。
 このイザヤ書の文脈にこの言葉-「わたしの心に適う者」があるということは、この言葉は、イエスさまが神さまから選ばれた神の子であることを示していると同時に、もう一方では、イエスさまがイザヤ書53章でその頂点を迎える「苦難の僕」でもあることを表しています。
 苦難-苦しみを引き受ける僕となるべく選ばれた従順な僕、その苦しみの頂点としての十字架の死、しかしそのことによって与えられる神さまの祝福と新しい生。イエスさまの洗礼は、イエスさまをこの道へと導いていくものでした。そしてこれが従順に対して与えられる神さまの約束でした。

 罪を告白し、悔い改めへと導かれる私たちと同じ低さに立ってくださったイエスさまを模範として歩む私たちも、やはりこの道へと導かれていくのです。苦難を引き受ける僕となるべく選ばれた従順な僕、その苦しみの頂点としての死、しかしそのことによって与えられる神さまの祝福と新しい生。
 使徒パウロが、今日後からお読みしたロマ書、ローマの信徒への手紙で、「わたしたちはキリストの死にあずかるためにバプテスマを受けたのだ」(6:3)と語ったのも、この道のことでした。「苦難を引き受ける僕となるべく選ばれた従順な僕、その苦しみの頂点としての死、しかしそのことによって与えられる神さまの祝福と新しい生」-まさに洗礼-バプテスマです。
 洗礼は、それによってキリストの救いに与るものでも、あるいはそれによってキリストの恵みに与るものでも、またそのような、洗礼を授かれば救いや恵みに与ることができるといった特権なのでもなく、まず、キリストの死に与るものでした。

 「イエスはバプテスマを受けると、すぐ水の中から上がられた」(3:16a)とありますが、これはいわゆる浸礼-水に浸す洗礼-のことです。イエスさまはヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられましたが、それは全身を水中に入れてバプテスマを受ける浸礼でした。バプテスト教会では、この講壇の下が小さなプールになっていて、洗礼式ではそこへ降りて行って全身を水に浸してバプテスマを受けます。
 私たちの教会では滴礼-水を滴らせる洗礼-という仕方で、洗礼盤から私が水を掬って受洗者の頭にかけるという仕方で洗礼式を執り行いますが、その場にある、「水の中を通って天が開けるのを見る」(3:16b)という覚悟、バプテスマが本当に命がけの出来事であるという覚悟を、浸礼の時と同じように私たちが持つことは、やはり必要だと思います。

 「苦難-苦しみを引き受ける僕となるべく選ばれた従順な僕、その苦しみの頂点としての十字架の死、しかしそのことによって与えられる神さまの祝福と新しい生」。
 これは、最も小さいものと苦しみを共にする生き方を私たちに指し示すものです。私たちの、自分自身の生の照準を最も小さいものに合わせること。私と共に生きている夥しい小さなものへと私の目と耳を向け、私の心を開くことへと私たちを導くものです。
 そのところへと私たちは招かれ、そこでイエスさまと労苦を共にすることの出来ることが、イエスさまの招きを受け入れた者の恵みであり、喜びであり、救いとなるのだと思います。そうであればこそ、私たちは同じ招きを人々にし、人々が集い、そこで労苦が分かち合われる器としての教会を形づくり、そこから神さまと人とに仕えていく歩みを共に進めていくことができるのではないでしょうか。
 今日の青年礼拝では特にこのことをご一緒に覚えたいと願います。

 福音書記者マタイが強調した従順と、それに対して与えられる神さまの約束は、その十字架の死を通して、神さまの意志を私たちに示してくださった主イエス・キリストの苦難とともなる新しい生へと、私たちを再び結び付けてくださいます。
 これがバプテスマの大きな恵み、喜びであり、使徒パウロはその喜びを次のように表しました。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」(ローマ6:8)。2000年後の私もそう思います。皆さんもそう思うでしょう。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」。
 祈りましょう。

 神さま、今日の青年礼拝に感謝します。
 私たちのキリスト教の信仰は、「何日」という問題ではなく、私たちの「一生」に関わる問題であり、「いくら」という問題ではなく、私たちの「すべて」に関わる問題であるということ、私たちの生活の全領域に関わる出来事であることを、今日ここに集う若い人たちと共にあらためて覚えさせてください。
 私たちがキリスト者であるということは、私が一つのライフスタイルを選び取るという生き方の問題であることを私たちにあらためて悟らせ、その恵みをすべての人と共に分かち合うことが出来ますよう、私たちを導いてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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