2月17日(水)「灰の水曜日」早天礼拝説教 「恵みのとき」
更新日: 2021.02.24
2021年「灰の水曜日」早天礼拝(2021.2.17)奨励
ヨエル書2章12~18節、マタイによる福音書5章1~2節,6章16~18節
「恵みのとき」 牧師 野田和人
今日2021年の「灰の水曜日」に与えられた御言葉は、マタイによる福音書5章から始まるイエスさまの山上の説教の第二部、6章~7章に入って少し進んだ所です。
イエスさまは5章17節で、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と語られ、近くでイエスさまの話を聞いていた弟子たちに向けて、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と仰いました。ここで「あなたがたの義が…」の「義」とは「正しさ」のことですけれども、他の言い方をすれば例えば、「和解の神さまと共にある生き方」と言ってもいいでしょう。
「山上の説教」第二部は、この義を実践するために、「和解の神さまと共にある生き方」を実践するために、私たちの日常生活の中での具体的な留意点を挙げている二つの章から成っています。そしてその初めの6章1節は、第二部の序文、あるいは要約と言うことの出来るものです。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」。
この序文に続いて、「施し」、「祈り」-ここに「主の祈り」が入ってきます-そして今日お読みした「断食」といった宗教的実践を扱う段落と、「所有」-「あなたの富/宝のあるところに、あなたの心もある」(6:21)、「煩い」-「思い悩むな。…天の父はあなたがたに必要なものをご存じだ」(6:31,32)、「裁き」-「人を裁くな。…偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」(7:1,5)、そして「願い」-「だれでも、求める者は受ける。…だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(7:8,12)-黄金律と呼ばれているものですが、こうした私たちの一般的な普段の生活の中での実践を扱う段落が続くという形になっています。
今日お読みした箇所にも見られますが、イエスさまが義の実践について、和解の神さまと共にある生き方を実践することについて語っていかれる中で、「偽善者」という言葉がよく用いられています。この言葉の本来の意味は「舞台俳優」というものです。もちろん、他人を演じる俳優がそのまま偽善者なのではなく、ここでは、見る者がいることを前提として自分を演じる者のことを言っています。
律法がイスラエル全体の生活を律する規範ということになってきますと、人々はその下で互いに敬虔さを競い合うようになり、人々の関心は律法を与えられた神さまに向かうのではなく、互いを監視するように、相互監視的に、お互い同士に向けられていきました。そしてそれぞれが自分自身の演技者となり、また観客となっていく中で、そのような生活の中心は、神さまにではなく人間に向けられていきました。
このような状況で行われていた宗教的実践について、ここでは断食について、イエスさまは、それが神さまと相まみえるためではなく、他人の評価を得たいがための、自らの名誉のための一つの手段、道具と化してしまっていることをここではっきりと指摘するのです。
誰もが尊重する断食は、それが信仰的であり、そして断食をする個人の極めて主体的・意志的な行為であるからこそ、かえってそこに私たち人間の陥りやすい罠があるとうことではないでしょうか。
そこでイエスさまは次のように言われます。「はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」と。この言葉は、彼らがすでに神さまからの報いを必要としなくなっていることを表しています。神さまからの報いを受ける必要がないということです。和解の神さまと共にあったはずの民が、主体的・意志的に互いに自分を演じ合うようになったことによる神の民の分断と孤立、これが、彼らがすでに受けていた報いでした。
今日の聖書箇所の「あなたは…」から始まる後半部分(6:17f)は、6章に記されている宗教的実践の最初にあった「施し」のところで、イエスさまが語られた言葉に対応しています。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(6:3)。
イエスさまの、偽善者たちに対する指摘、批判の根底にあったものは、自分自身を演じる者とは真逆の、ここに記されている究極の匿名性、無名性と言ってもよいものでした。そしてその匿名性は、神さまの匿名性に由来しているものでした。父なる神は「隠れたところにおられる」(6:18)からです。
あのヤコブと格闘した神は(創世記32:23ff)、荊の中でモーセに顕現された神は(出エジプト3:1ff)、栄光に包まれた天上におられるのではなく、私たちの思いもかけない、思いも寄らない所におられたのです。そう、新約聖書に登場する、あの憐れみ深いサマリア人(ルカ10:25ff)然りです。
この匿名の神さまが、私たちのすぐそばにおられるということに私たちが目を向ける時、私たちは、断食をはじめ、何をも誇る必要がないことに気が付きます。匿名の神さまは、隠れたところにある私の必要に必ず目を留めてくださり、必ず報いてくださるからです。
今日の「灰の水曜日」早天礼拝で最初にお読みした「レントへの招き」の中に、悔い改めと克己-まあ、自制ということですが、悔い改めと克己とありますが、これら悔い改めと克己も、私たち人間の為し得る主体的・意志的な行為、業ではなく、私たちのためにその独り子をすら惜しまれなかった主なる神さまの招きの下で初めて、私たちにそのようにすることが許されている恵みの業であるということを、私たちの「衣を裂くのではなく、わたしたちの心を引き裂いて」(ヨエル2:13)、今日あらためて受け入れたいと切に願います。
詩編の詩人と共に祈りを合わせて。「神さま、わたしを憐れんでください。恵みのとき、定められたときが来ました」(詩編102:14)。
再び巡り来た主の年2021年のレントの期節。神さまの憐れみと赦し、そして闇から光へと向かう希望が、皆さんの上にありますようにと心よりお祈りいたします。