牧師メッセージ

5月9日(日)復活節第6主日礼拝説教 「わが意志にあらずして」

更新日: 2021.05.14

2021年復活節第6主日/いのれ(2021.5.9)礼拝説教     牧師 野田和人
列王記上18章20~39節、マタイによる福音書6章1~15節

牧会祈祷
 慈愛と憐れみに富み給う、私たちの命と復活の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年の復活節第6の主日、教会の行事暦では「母の日」の主日、LOSUNGENの「いのれ」の声に導かれて、様々な形、様々な方法で御前に集められ、御名を賛美し、心からなる礼拝を皆さんと心を合わせて一つになってささげることのできる大きな恵みを、心より感謝いたします。
 
 特に今日は、愛する子に惜しみのない愛を注ぎ、忍耐と寛容とをもって守り育ててくださった、あなたが私たちに与えてくださった私たちの愛する母お一人おひとりを覚えて、その労苦と惜しみのない献身に心より感謝いたします。この地上と天上におられる私たちの母のすべてを、喜びのうちにある母はもちろんのこと、悲しみのうちにある母も、あなたの祝福と平安のうちに置いてください。

 私たちはこの一ヵ月のうちに、敬愛する5人の姉妹、兄弟方を相次いで御許へとお送りしました。
 「主イエスは涙を流されました。その涙をもって、主イエスは嘆き悲しむ者の永遠の友となられました。イエスさまはいつも、そして今も伴っていてくださいます。主は涙を流されながら、涙を流す者の肩を抱いて言われます。『悲しむ者は幸いである。その人は慰められるであろう』と。悲しむ者と共に主はおられます。私たちの主は、インマヌエル-神われらと共におられる主ですから。主イエスは涙を流されました」。

 神さま、あなたの慰めと励ましが、今悲しみの中にある、苦しみの中にある、そして困難の中にあるお一人おひとりの上に、イエスさまを通して絶えせずありますように。
 このお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前におささげいたします。
 アーメン。

説  教         「わが意志にあらずして」
 新型コロナウイルスのパンデミックは様々な所で、様々な形でたいへん深刻な影響を与えていますが、その中で自死ということ、自ら死を選ぶということも、あらためてより深刻な影響を受けているものの一つではないでしょうか。自死と向き合う「いのちの電話」のような組織(教会ももちろんそうなのですが)、そのような組織の本当に大切な働きをおらためて思い起こします。
 
 ドイツの「いのちの電話」の自死予防ハンドブックの副題には、次のような言葉が記されています。「誰も好んで自死はしない」と。
 「誰も好んで自死はしない」-この言葉は、私たちが他人をあれやこれやと詮索することから離れて、今苦しみの中にある人の苦しみを受け入れ、その人の嘆きに耳を傾け、その人の側らにいること、私がその人に寄り添うことがいかに大切なことであるかということを私たちに知らせてくれる言葉です。
 そして私たちがそのようにして寄り添う時、私たちには祈ることが与えられていることに私たちはあらためて気づかされます。
 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」(マタイ6:8)。このように仰ってイエスさまが私たちに示してくださった「主の祈り」にも、主が私に寄り添い、私が一人に寄り添う、主が教会に寄り添い、教会が一人に寄り添う。このような側面があるのではないかと思います。

 そのためには、私たちが寄り添うためには、「右の手のすることを左の手に知らせてはなりません」(マタイ6:3)し、「会堂や大通りの角に立って祈って」(同6:5)はなりませんし、「くどくどと祈って」(同6:7)もならないのです。というのもそれらは、寄り添うことからは最も遠く離れた、自分をよく見せようという自己演出の祈りになってしまっているからです。
 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。
 そうなのです。神さまはあなたを、「にもかかわらず」値高く貴い一人の存在としてすでに受け入れてくださっているのです。そのように神さまはあなたに寄り添ってくださっている。だからあなたによって神さまが動かされることはないのだ、あなた自身を神さまに向けて動かしなさい、ということではないでしょうか。

 今日最初にお読みした旧約聖書の列王記上18章に記されていた、バアルの預言者たちと預言者エリヤとの対照も、バアルの預言者たちは450人もいて、エリヤはたった一人でしたが、この対照も、今お話ししたことを物語っています。
 神を動かそうとしたバアルの預言者たちと、自らを神さまに向けて動かすことのできた預言者エリヤとの対照です。それがエリヤの祈りによく表されています。
 「主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように」。このエリヤの祈りが、イエスさまが「だから、こう祈りなさい」と弟子たちに、そして私たちに教えてくださった「主の祈り」の前半部分とたいへんよく響き合っていると思うのです。

 「主の祈り」は、私たちが自分自身に基づいて生きるところから、私たちが自分自身を神さまに明け渡したところに満ちてくる主のリーダーシップに基づいて生きるところへと私たちを動かしていく祈りとして、イエスさまご自身がまず弟子たちに、そして私たちに寄り添って示してくださった祈りです。私たちが互いに寄り添うことができる基は、その根拠は主のリーダーシップにあるということ、このことを「主の祈り」の前半部分は私たちにはっきりと示してくれています。

 私は刑務所で、刑務所と言っても、官民が共同で運営している播磨社会復帰促進センターという刑務所ですが、そこで月一回集合教誨を担当させていただいています。その集合教誨では、以前当教会の教養講座でも用いたことのある、竹内郁夫先生が著された『平和のための祈り-私たちの日々の祈り「主の祈り」に聴く』という小冊子を教誨のテキストの一つとして用いています。
 その冊子の中での、「主の祈り」の前半部分の祈りについての最後の解説のところで、郁夫先生が、元国連事務総長ダグ・ハマーショルドさんが「主の祈り」に寄せて作られた祈りを紹介してくださっています。「御名を聖となさしめたまえ わが名にあらずして。御国をきたらしめたまえ わが知性にあらずして。御心を行わしたまえ わが意志にあらずして」という祈りです。今日の説教題の「わが意志にあらずして」は、この祈りから取らせていただきました。
 この祈りは、集合教誨を受けに来られる方たちにも繰り返しお話しするものです。「御名を聖となさしめたまえ わが名にあらずして。御国をきたらしめたまえ わが知性にあらずして。御心を行わしたまえ わが意志にあらずして」。特に三番目の祈り、「わが意志にあらずして」。
 私自身を神さまに明け渡したところに満ちてくる、私自身が解放されたところに満ちてくる「御名」であり、「御国」であり、「御心」が、私たちを互いに寄り添うことへと結びつけていきます。

 「主の祈り」ということで何度かお話ししたことがありますが、ここでの「御名」とは神さまご自身のこと、神さまのお働きのことです。「あなたの名が聖とされますように」-これはその名が軽率に用いられることのないようにということです。私たち人間が意のままに神さまを動かして、神の名において自分自身の名を成すことを厳しく戒め、神さまを神さまそのものとする、神さまが本当に神さまとして崇められるところへと祈る者を動かしていく祈りです。
 そして、神さまが本当に神さまとして崇められるためには、私たちは主イエス・キリストによって新しく造り変えられる必要があるということ。それが「わが名にあらずして」ということでしょう。

 「御国が来ますように」-これは、わが知性の行き着く先の傲慢さではなく、「わが知性にあらず」して「私を罪の赦しの器としたまえ」との、心の内から絞り出すような祈りと共に、今まさに始まろうとしている神さまの支配を心の底から求める祈りです。
 そして「御心が行われますように」-主イエスはゲツセマネで「あなたの意志が行われますように」との願いによって、人間の意志とは真っ向から対立する神さまの意志に従っていかれました。神さまの意志は善良なものに違いないのですけれども、まさにその善良な意思が、イエスさまを苦難の経験へと、献身へと導いていきました。
 「御心が行われますように」-「わが意志にあらずして」。それは、私の意志を神さまの意志に対して開いていく、神さまの意志に私の意志を合わせていく祈りです。

 果たして、神さまの御心は行われるのでしょうか。
 何週間か前に「しるしが欲しい。」との説教題で少しお話しした、マタイによる福音書12章の真ん中にある「ベルゼブル論争」のところで、「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)とイエスさまが仰ったのは、御国が、神さまの支配が完全に確立されるのはこれから先の未来のことだけれども、その未来の出来事を確証するのは、確実にするのは、現在のことなのだということを示すためでした。
 ここから導かれる結論は、私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活によって一人ひとりが「罪の赦しの器」として新しく造り変えられ、その一人ひとりを主が導いて用いてくださることによって、私たちが主と共に互いに寄り添うことができるように、主が導いて用いてくださることによって、これから先の未来の出来事を確証する、確実にする「しるし」として、今を生かされているということではないでしょうか。
 そこに「わが意志にあらずして」神さまの意志が、神さまの御心が確かに働いているのだということを、私たちの「主の祈り」は確かに伝えてくれています。祈りましょう。

 私たちの父なる神さま、わが名によってでも、わが知性によってでも、わが意志によってでもなく、あなたの名が崇められますように。あなたの国が来ますように。あなたの心が、あなたの意志が、天でと同じく地でも行われますように。
 私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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