牧師メッセージ

5月16日(日)復活節第7主日礼拝説教 「再び天へ」

更新日: 2021.05.19

2021年復活節第7主日/ききたまえ(2021.5.16)礼拝説教    牧師 野田和人
アジア・エキュメニカル週間
エレミヤ書10章1~10節a、ルカによる福音書24章44~53節

牧会祈祷
 今日は週報にも記してありますように、主の年2021年の復活節最終主日ですが、アジア・エキュメニカル週間の始まりの日-“エキュメニカル”というのは、「全キリスト教会の」、「全世界の」と言う意味です-そのアジア・エキュメニカル週間の初めの日、“アジア・サンデー”としてもこの礼拝を守っています。
 1948年に創設された世界教会協議会、“World Council of Churches”-WCCに所属するアジア・キリスト教協議会、“Christian Conference of Asia”-CCAが今から62年前、1959年のペンテコステの一週間前の主日に設立されたことを記念して、それから15年後の1974年以来、これまで47年間に亘って今日の主日をアジア・サンデーとして守っています。
 それは、アジアにある21の国々や地域の教会とそこに連なって生きる人々を覚えて、私たちの喜びや悲しみ、恐れや不安、そして希望をそれぞれの口で言い表して互いに理解し合い、賛美と祈りを分かち合うためのものでもあります。「教理は分裂をもたらすが、奉仕は一つにする」と言われます。「教理は分裂をもたらすが、奉仕は一つにする」。この言葉を標語として、私たちはエキュメニカル=一致を求めています。

 祈りましょう。
 神さま、私たちは主の体であるパンと、主の血である杯によって、御子が人となられたこと、その人のために命をささげられたこと、私たちは皆一つであるということ、イエスさまの死、そして復活と昇天へと続く中で、イエスさまが私たちのために為された執り成しの祈りと、私たちのために聖なる霊、命を与える霊を送ってくださったことを思い起こします。
 しかしその世界の中で、いまなお対立や差別、迫害に苦しむこのアジアに、どうか目を留めてください。数多くの、私たちの知り得ないところで無残に奪われていく命に目を留めてください。悲しみ、苦しむ者に慰めと希望を与えてください。そして、あなたによって私たちに与えられた和解への知恵を用いて、私たちが互いの偏見を捨て去り、平和の主に結ばれて一つとなり、主の福音が告げ知らせる平和をこのアジアからも忍耐をもって作り上げていくことができますよう、私たちを導いてください。
 私たちはイエスさまが再び来られることを待ち望みます。その時、イエスさまは約束された祝宴を、私たちアジアに生きる者と共に、また全世界の民と共に祝ってくださるでしょう。主イエスよ、来てください。主の御名によって祈ります。アーメン。

説  教            「再び天へ」
 今年の母の日は先週の5月9日(日)、5月の第2日曜日だったのですが、その母の日と関連したお話ですが、皆さんはミケランジェロの“ピエタ”-「哀れみ」という彫刻をご存知かと思います。いくつかあるのですけれども、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂にあるピエタは、彼が20歳代という若い時の作品で、十字架から降ろされたばかりのイエスさまを母マリアが抱いているという、まさに聖母アリアをよく表現した作品と言えます。
 ところが、ミケランジェロが亡くなる直前まで不自由な手で彫っていた“ロンダニーニのピエタ”という作品は、母マリアがイエスさまに背負われているものでした。ミケランジェロはその晩年、自分自身を、イエスさまに背負われている母の姿に重ね合わせて見ていたのではないかと思うのです。
 そのように、イエスさまが、イエスさまの時代からミケランジェロの時代を経て現代のこの私へと繋がってくる一人ひとりを、時代を貫いて背負い続けてくださっているということ、このことと、今日お読みした聖書の御言葉である旧約聖書のエレミヤ書10章10節、新約聖書のルカによる福音書24章44節には確かに繋がりがあるのだということを、今日お話しできればと思っています。

 そのことについては少し後でお話ししますが、今日お読みしたルカによる福音書の最後の記事は、この、私たち一人ひとりを、時代を貫いて背負ってくださっているイエスさまの昇天-「天へ昇る」と書いて「昇天」-について記しているものです。
 ただルカによる福音書では、復活後40日が経って昇天が起こったと記されている、ルカによる福音書を記したのと同じ著者が著した使徒言行録とは違って、甦られたイエスさまが弟子たちの前に現れたイエスさま復活の日と同じ日に、イエスさまの昇天も起こったのだというように、一連の出来事が一日のものとして圧縮されて、私たち聞く者に、読者にたいへん強いインパクトを与えています。
 
 とにかく、この昇天から10日後、今年は5月23日(日)が主の復活から50日目のペンテコステ-聖霊降臨祭で、今年は5月13日(木)だった昇天日と聖霊降臨日とに挟まれた今日の主日は、ルカの記事によれば彼ら弟子たちが、そして私たちが、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっている」(ルカ24:49)時となっています。
 「高い所からの力」とは、この後弟子たちが宣教に向かって歩み出すための勇気を与えてくれる聖霊のことですけれども、彼らにその聖霊を賜るための主イエスの昇天は、福音書に記されているその後の弟子たちの反応-復活の主の語られる言葉を受け入れ、ベタニアで主を伏し拝んだ後、エルサレム神殿へ戻って礼拝をささげた彼らの反応-を見れば、主イエスこそ、エレミヤ書10章10節前半に記されている「真理の神、命の神、永遠を支配する王」であられることを彼らに確信させるものであったことが分かります。彼らは待ち望んでいました。このあとに来るものを。そして、私たちも待ち望んでいます。

 この「真理の神、命の神、永遠を支配する王」としてのイエスさまは、ご自身の復活の日の夜、弟子たちに向けて次のように語られました。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編-すなわち聖書全体ということですが-わたしについて律法書と預言書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(ルカ24:44)と。ただ彼ら弟子たちは、イエスさまが言っておられたことを分かってはいませんでした。

 ルカによる福音書の今日お読みした箇所の直前に、イエスさまの二人の弟子がエルサレムから11㎞ほど西に位置するエマオという村へ向かって歩きながら、これまでに起こった一切の出来事、十字架から空の墓に至るまでの出来事を話し合っていたことが記されています。
 まさにその時、復活のイエスさまご自身が二人と一緒に歩き始められたのですが、彼らがその方が復活の主であると分かったのは、一緒に歩いていた時ではなく、その後の、彼らがその方を無理に引き止めた宿での食事の時、イエスさまが「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(ルカ24:30)ことによって、彼らの遮られていた目が開かれた時でした。
 その時二人は、イエスさまが「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださった時、自分たちの心が燃えていた」(同24:32)ことが分かったのでした。
 けれども、彼らの目は再び曇らされるのです。それほど、イエスさまの復活の出来事は彼らに大きな動揺を生み出しました。疑いも不信もなかなか取り除かれないのです。

 ところが、そこでイエスさまは再び聖書から、ご自分について書き記されている事柄を丁寧に語り始められるのです。「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(ルカ24:46-48)と。
 彼らがこれらのことの証人となるのは、イエスさまを通して聖霊が彼ら一人ひとりに送られるからですが、それは聖霊を通してイエスさまが彼ら一人ひとりを背負って、彼らを、そして私たちを、他者をも巻き込んで罪の赦しを得させる悔い改めと共に生かしてくださるということでもあると思います。そのために、主は再び天へ昇られたのです。

 ベタニアは、エルサレムから3㎞ほど東にある町で、「貧しい者の家、悩める者の家」という意味ですが、福音書記者ルカは、この「貧しい者の家、悩める者の家」-「最も小さい者の家」であるベタニアが、復活の主イエスによって祝福された、復活の主の昇天の地となったことを告げています。
 エマオ途上の二人の弟子たちの陰鬱で悲しい顔は、今や何人もの弟子たちの活気のある、喜びあふれる顔へと変わり、彼らが神さまをほめたたえるエルサレム神殿の場面で、礼拝の場面でルカによる福音書は終わります。終わりますけれども、この福音書の始まりもまた、実はエルサレム神殿の中、洗礼者ヨハネの父となる祭司ザカリアが聖所で香を焚く場面でした。覚えておられるでしょうか。
 
 終わりは始まりを、始まりは終わりを予感させます。
 聖所の外では大勢の民衆が祈っていました。礼拝をささげていました。主の天使が聖所の香を焚く壇の右側に立った時、ザカリアは不安と恐怖の念に襲われましたが、天使はそこで洗礼者ヨハネの誕生を告げたのでした。
 そうです。神さまは確かに働いておられ、何か驚くべきことがやがて起こるのです。そして起こったのでした。
 この福音書の最後で、弟子たちも、そして私たち読者も再びエルサレムに、エルサレム神殿の中に、礼拝の時にいます。私たちは、神さまが確かに働いておられ、何か驚くべきことがやがて起こることを予感して、あるいは実感して、この礼拝の場から私たちの日常へと、私たちが生かされているこの世界へと、主イエス・キリストの出来事の証人として遣わされていくのです。

 先週皆さんとご一緒に見た「主の祈り」の三番目の祈りは、「御心が行われますように わが意志にあらずして」との祈りでした。それは、私自身を神さまに明け渡したところに満ちてくる神さまの意志、その神さまの意志に私の意志を合わせていく、すなわち「委ねる」ということでした。
 そしてそれは、復活の主イエスが再び天へ昇られ、時代を貫いて、どの私たち一人ひとりをも背負い続けてくださっているからこそできることではないかと思うのです。 ベタニアで主に別れを告げた弟子たちも、このことが分かったのではないでしょうか。
 私たちは、赦され、満たされることを待ち望んでいます。祈りましょう。

 神さま、主イエスはご自分が「地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と言われました。そのようにして引き寄せられた私たち一人ひとりを、闇から射し出でるあなたの光を証しする器として用いてくださり、私たちを他者と共に生きる者としてください。
 そのために賜る聖霊を、私たちは心を開いて待ち望みます。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

page top