8月1日(日)聖霊降臨節第11主日礼拝説教 「逃亡者、迫害者が…」
更新日: 2021.08.05
2021年聖霊降臨節第11主日/平和聖日(2021.8.1)礼拝説教 牧師 野田和人
ヨナ書3章1~5節、使徒言行録9章26~31節
牧会祈祷
慈愛に富み、忍耐に勝る私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年の聖霊降臨節第11主日にあって、私たち神戸栄光教会の属する日本基督教団の定める行事暦に基づいて、あなたの御前にこの平和聖日の礼拝をささげることのできる恵みを心より感謝いたします。私たちに与えられた「主の平和」を覚えて、平和を求める祈りをささげます。
詩人は語りました。
「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とし、国に向かって剣を上げず、戦うこ
とを学ぶな」(イザヤ2:4、ミカ4:3)と。
しかし影なる詩人は応えます。
「鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ。弱い者も、わたしは勇士だと言え」(ヨエル4:10)と。
神さま、ぶつかり合うこれらの詩から私たちを遠ざけず、研ぎ澄まされた心で私たちがより良く知り、あなたに委ねる信仰を与えてください。
平和の主である神
私たちはあなたのあらわしてくださる平和を祈り求めます。
命の主である神
私たちは戦争のために流された多くの人々の血と涙とを忘れません。
悔い改めへと導いてくださる神
私たちは日本の侵略によって犠牲となったアジアの人々のことを忘れません。
私たちは悔い改めます。
虐殺された多くの人々のことを覚え、性奴隷とさせられ傷ついた多くの人々のことを覚えて。
私たちは平安を祈ります。
原子爆弾の犠牲となった多くの人々の魂のために、沖縄戦の犠牲となった多くの人々の魂のために、空爆の犠牲となった多くの人々の魂のために、病や災害によって失われた多くの人々の魂のために。
癒しの主である神
戦争によって、理不尽な暴力によって傷つけられ、今も癒えない人々の心を癒してください。
正義をあらわしてくださる神
今も続く紛争や戦争を止める勇気を私たちに与えてください。戦争のために準備されるあらゆる手段を止める勇気を私たちに与えてください。
和解の主である神
私たちが人種・宗教・肌の色・国籍を越えて、隣人とつながることができますように、私たちの想像力を導いてください。
平和の主である神
私たちがあなたの平和を生きることができますように、私たちの決意を確かなものとしてください。
慈愛に富み、忍耐に勝る私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
説 教 「逃亡者、迫害者が…」
今日の説教題にある「逃亡者、迫害者」が一体誰のことを言っているのかは、今お読みした旧約聖書、新約聖書それぞれの聖書箇所からお分かりになるでしょう。
逃亡者とはもちろんヨナ、預言者ヨナのことですね。そして迫害者とは、今お読みした所からだけでは難しいかもしれませんが、最初の26節に「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」とありますように、それまではキリストの弟子たちを迫害していたサウロですから、今さら彼に弟子だと言われても皆は当然信じることはできませんよね。そのように弟子だとは信じてもらえなかったサウロ、後の使徒パウロのことです。
これらヨナのお話、パウロの言行を物語として読むのももちろん興味深いのですが、聖書は小説などよりももっと直接に、もっとダイレクトにそこに登場してくる主人公と私を結びつけてしまいます。そうなんです。逃亡者、迫害者は、自分とは関係のない誰か他の人なのではなくて、私のことなのだということです。
ヨナ書3章の書き出しは「主の言葉が再びヨナに臨んだ」となっています。「再び」ということはすでに一度主の言葉がヨナに臨んでいたわけで、それがヨナ書1章1節「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」との言葉です。
それは、当時の中東世界を席巻していたアッシリア帝国の首都、繁栄を謳歌していた「都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪が主の前に届いている」(ヨナ1:2)からというものでした。このヨナのお話をご存知の方は、よく知っておられる方も多いかと思いますが、思い出してみてください。
ヨナは神さまの言葉を取り次ぐ預言者であったにもかかわらず、この主の言葉の前に、そのミッションーこともあろうに敵国アッシリアの都ニネベに行って主の言葉を告げるというミッションの理不尽さ、困難さへの思いが先に立って、あろうことか主の前からの逃亡を謀ります。それもニネベとは正反対の方向へ、イスラエルから見れば当時の地の果てとも言えるスペイン南西部の町タルシシュへ向けて。しかしヨナは逃げ切れませんでした。
彼の乗った船は大嵐に遭い、乗組員たちはそれぞれ自分の神さまに助けを求めましたが、嵐は収まりません。いくら叫んでも埒が明きません。ヨナはと言えば、主の言葉、主の命、神さまの命令に逆らって主の前から逃げ出した自分のせいで船が大嵐に遭ったことを知っていましたから、乗組員たちに詰め寄られると、「自分を海にほうり込めば嵐は収まる」と言ってしまいます。乗組員たちはさすがに躊躇し、とにかく船を漕いで陸に戻そうとしましたが、万策尽きてヨナを海にほうり込むと、果たして海は静まり、彼らはヨナの神を礼拝したと記されているのがヨナ書1章です。
さて、海にほうり込まれたヨナは、主がヨナを吞み込むよう命じられた大きな魚のお腹の中に三日三晩いた後、やはり主にヨナを吐き出すよう命じられた魚に陸地に吐き出されて助かります。そこで「主の言葉が再びヨナに臨んだ」のでした。今日の箇所です。
ところで、ヨナが魚のお腹の中にいた三日三晩の間何をしていたのかというと、彼はただひたすら祈っていました。それがヨナ書2章に記されています。
「あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。…わたしは思った。あなたの御前から追放されたのだと。…わたしは山々の基まで、地の底まで沈み、地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よ、あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。…陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった。…息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した」(ヨナ2:4a,5a,7,3b,8)。
そしてヨナは最後には「わたしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは主にこそある」(同2:10)と、感謝と決意と主なる神さまへの信仰を自らの祈りの内に言い表したのでした。
魚のお腹の中は一体どんな所でしょうか。もちろん誰にも分かりませんが、それが意味していることは例えば真っ暗な闇ということではないでしょうか。ただヨナにとってのその闇は、救いへと至る闇、自らの不従順さをも含めて、すべては主なる神さまのご計画の内にあることを悟るために、あるいは悟らされるために祈り続けた三日三晩の闇だったのではないでしょうか。
ヨナにとっての三日三晩の魚のお腹の中の闇は、神さまの御業に気付かされ、再びその主に従うためには、主の派遣を受け入れるためには必要不可欠な闇でした。
さて、後にパウロと呼ばれることになったサウロはどうだったでしょうか。
今日お読みした使徒言行録9章27節の所、「旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した」という所は、サウロの回心について語っている所です。使徒言行録ではパウロの回心について、この9章と22章、26章に三回記されていますが、この9章の前半に最も詳しく記されています。
パウロが自分自身の手で記した自らの回心の記事は、ガラテヤの信徒への手紙の1章だけですので、この使徒言行録の記録は、偉大は宣教者パウロをエルサレムの使徒たち、イエスさまの12人の弟子たちに結びつけ、その宣教活動の正当性を主張しようとする、使徒言行録の著者ルカによるたいへんよく整えられた記事ということができます。
ただそれは全く何もない所から出て来た、ゼロから作り出されたルカによる作り話ではなく、パウロが活躍したダマスコの教会に伝えられていた伝承を下敷きにしてルカによって整えられ、この聖書に大切な記録として残されたものです。
ルカの記録とパウロの記事とは似ている所、またかなり違っている所もありますが、ただ一つはっきりしていることはサウロの回心が真実だったということです。それは「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていた」(ガラテヤ1:13)彼が、イエスさまについて、この人こそ神の子である、メシアであると宣べ伝え始め、今度はそのことで、かつて迫害していた者が迫害される者となった、かつてキリスト者を苦しめていた者が今苦しめられる者となったという事実によって明らかでしょう。
その回心へと至る最初の様子がこの使徒言行録9章9節に記されています。サウロはダマスコにいた主の弟子であるアナニアの訪問を受けるまで「三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」と。
彼はその間何をしていたのでしょうか。彼は祈っていました。幻の中で主イエスはアナニアに向かって言われます。「今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ」(使徒9:11-12)と。
サウロがキリスト信徒たちの迫害者であることを知っていたアナニアはもちろん反論します。なぜこの私があんな奴の所へ行かなければならないのかと。ここまではヨナと同じですね。すると主はこう言われました。「行け。あの者は、異邦人の王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(同9:15-16)。
アナニアはここではヨナとは違って、主の前から逃げないで出かけて行って、サウロの上に手を置きました。イエスの名のためにこれからどんなにか苦しむことになる宣教への派遣を控えて、暗闇の中で三日間祈っているサウロの上に。
知恵の限りを尽くして主の前から逃れたヨナは、魚のお腹の闇の中で、不従順さゆえの助けを求めて三日三晩ひたすら祈りました。そして最後に「救いは主にこそある」との祈りを心の底から絞り出すことができました。それはヨナにとって、彼がその後の主なる神さまからの派遣を受けるために必要不可欠な時-闇の中での三日間でした。
暴虐の限りを尽くして神の教会を迫害していたサウロは、天からの光に打たれて主を見、その主から語りかけられた後、目の見えない闇の中でやはり三日間祈っていました。元どおり目が見えるようになるようにと。それは回心の完成に向けて必要不可欠な祈りの時でした。
ただ元どおりにとはいっても、その目は、十字架で殺されたあの無力なイエスこそが私たちのメシア、キリスト、救い主であることを見ることのできる目であり、それに続く苦難や迫害をも伴う宣教への派遣を見通すことのできた目に違いなかったのではないでしょうか。
今日の平和聖日の礼拝テーマは「宣教への派遣」ということですが、その宣教に出かける前の、宣教へと至る前の三日三晩の闇の中での祈り、しかし救いへと至る闇の中での祈りを私たちは欠かすことはできないということ、そして主はその祈りに必ず応えてくださるということに、私たちはあらためて目を向けたいと思います。
皆さんお一人おひとり、このような祈りをすでに経験してこられたことでしょう。またこれからも経験することでしょう。私たちがもし闇の中にいるのならば、今私たちは闇の中にいるのだと思いますが、その時、救いは主にこそある、主こそわが救い、主の平和のために私たちの間の最も低い所へ来られ、最も小さい者の一人にその身のすべてを献げられた主こそわが救いとの祈りこそが、そこから光が輝き出て来る闇の中での祈りであるべきではないでしょうか。
逃亡者ヨナも、迫害者パウロも、主はご自身の平和の証人として用いられました。主は、あなたや私も、光を孕んでいる闇の中での祈りを通して、主の平和の証人として用いてくださるに違いありません。
祈りましょう。
「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(Ⅱコリント4:6)。
神さま、私の闇は、私たちの闇はあなたの闇です。ですから、私たちがその闇の中で聖霊の慰めを受け、あなたによって励まされ、勇気を与えられ、そこから輝き出る光と共に主の平和を生きることができますよう、私たちを導いてください。
主の御名によって祈ります。アーメン。