「風は吹き、炎は燃えるⅡ」
更新日: 2015.01.29
2014年聖霊降臨祭主日礼拝
ヨシュア記1章1‐9節 使徒言行録2章1‐11節
牧 師 野田和人
私たちは2013年5月のペンテコステ(聖霊降臨祭)主日礼拝においても、「この風を止めることはできない、この炎を消すことはできない」とご一緒に唱えました。一年と少しの月日が経ち、私たちの生きている世界が、私たちが歴史から少しずつ学びとってきた和解と受容よりも対立と自己中心へとその歩みを進めようとしている今、「この風は真理の風、この炎は愛の炎、風は吹くことをやめず、炎は燃え続ける、誰も止めることも消すこともできない」と皆さんと再び声を合わせることは、キリストの体なる教会に繋がっている者としての証しなのだと確信しています。冷笑と絶望と嘲笑、無関心と不安と不信仰を覆って押しやる「真理の風、愛の炎」である「聖霊」が、私たちを取り囲み生きて働いてくださる、この確信とともにキリストの教会は誕生しました。ペンテコステ-聖霊降臨祭です。
使徒言行録の著者であるルカは、この聖霊の注ぎというプレゼントをもらった喜びを一人占めするのではなく、周りの人たちにも何とか感じ取ってもらおう、見取ってもらおう、見て知ってもらおうとたいへん苦心しました。それが使徒言行録の2章、2節と3節にある表現です。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」皆さん、感じ取り、見取ることができるでしょうか。今日、この後に執り行われる洗礼式と聖餐も、私たちがこの聖霊の働きを見て感じることができるようなサクラメント-「見える言葉」として私たちに与えられているものです。そしてこの「言葉」の現れを、ルカは「舌」を用いて表現しました。
「炎のような舌が一人一人の上にとどまると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:4)とあります。当時エルサレムには、それまでにいろいろな国へと散らされていた、他国生まれのユダヤ人が戻ってきて住んでいたようですが、この出来事に驚いて集まってきた者たちの反応が11節の言葉です。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。
「彼ら」というのは、律法を修めた信心深いユダヤ人から見れば無学で素朴な、預言者が出るものではない、異邦人のガリラヤと蔑まれた地からやって来た「彼ら」であり、「わたしたちの言葉」とは、生まれも育ちもユダヤではない別々の国に属する者の言葉で、その言葉で神の偉大な業を語るということ-別々の言葉で「神の偉大な業」というただ一つの言葉を語るということです。これが聖書に記されている最初の聖霊降臨日に起こった出来事でした。私たちはペンテコステが巡り来るたびにこの出来事を思い起こし、私たちのそもそもの始まりに立つのです。
さて、そこで語っている人物をいったい誰が予測できたでしょうか。今日の箇所の直前のところに、イエスを裏切って死んでしまったユダの代わりにマティアという者を11人の使徒の仲間に加えることが決まったと記されていますが、この弟子選びをリードしたのがペトロでした。イエスが十字架にかけられる直前、「遠く離れて従った」(ルカ22:54)にせよ、女中に問い詰められて「わたしはあの人を知らない」(ルカ22:57)と3回繰り返したペトロが、ユダを非難してあの裏切り者に代わる者が必要だとよくも言えたものだなあと、いったいどの口でそんなことを言えるのかと思ってしまいます。けれどもここでは、半ば怪しんで、半ば嘲っているディアスポラ-離散から戻ってきた大勢のユダヤ人たちを前にして、ペトロはほんの2ヵ月前には真夜中の女中にさえ語ることのできなかった言葉を、初めて、声を張り上げて大胆に語ったのです。「わたしはあの人を知っている」と。これが聖霊の力です。
「“霊”が語らせるままに」というのはこのことです。ほんの2ヵ月前には真夜中の女中にさえ語ることのできなかった言葉を、声を張り上げて「わたしはあの人を知っている」と大胆に語ることです。彼らはおそらく初めて、自分自身の言葉で「神の偉大な業」というただ一つの言葉を語りました。「わたしたちはあの人を知っている」と。
イエスへの誤解、躓きと裏切り、その結果としての十字架、けれどもその十字架において示された赦しと憐れみ、そして復活の希望と新生の“霊”の約束。これら一つ一つを、彼らの体に痛いまでに刻みつけられたこれらの恵みの一つ一つ-「神の偉大な業」を、彼らはそれぞれ自分自身の言葉で語りました。「天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人」(使徒2:5)には彼らの言葉が自分たちの生まれ故郷の言葉を聞くように聞き分けられたのです。通じたのでした。なぜならそこで語られたのが、「神の偉大な業」というただ一つの言葉だったからです。だからディアスポラのユダヤ人たちにも、そして異邦人である私たちにも彼らの言葉が聞き分けられたのです。これが聖霊の力です。
この聖霊については、ヨハネによる福音書14章26節に次のように記されています。「…父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。聖霊の働きには教えることと思い起こさせることの二つがあるということですが、例えば今日のヨシュア記の1章8節「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい」との言葉は、このうちの教えることへと結びつく典型的な態度を表していると思います。
しかしペトロらの語った「神の偉大な業」というただ一つの言葉は、教えると同時に、あるいは教えることに加えて、主イエスを思い起こさせるものでした。イエスへの誤解、躓きと裏切り、その結果としての十字架、けれどもその十字架において示された赦しと憐れみ、そして復活の希望と新生の“霊”の約束-これらは、教えると同時にイエスの語られた言葉といつも結びついて、主イエスを思い起こさせるものでした。そのように聖霊は彼らを、私たち教会を教える-「前へと導く」と同時に、彼らに、私たち教会に主イエスを思い起こさせる-私たちを主イエスに「固く留める」ものです。聖霊は私たち教会が主イエスに留まること、イエスさまから逃げ出さないことへと導いてくださいます。だからこそ私たちは「この風は真理の風、この炎は愛の炎、風は吹くことをやめず、炎は燃え続ける、誰も止めることも消すこともできない」と今日宣言することができるのです。
ガラテヤの信徒への手紙5章22、23節に「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とあります。私たちは今日、霊の最初の実についての物語を聞いています。それは「わたしはあの人を知っている」、「わたしたちはあの人を知っている」という言葉です。この言葉によって「前へと導かれ」、この言葉を通して主イエス・キリストを想起しつつ、そこに固く留まりつつ、洗礼と聖餐の恵みに与りたいと思います。
「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」と万軍の主は言われます。そのように与えられるあなたの言葉を、信じる私たち一人一人の心に固く留め、よく働かせることができますよう導いてください。平和の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。